■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>吉見一族の姓氏家系辞典>>現在のページ

■■■吉見一族の姓氏家系辞典■■■

生田氏・池田氏(源範頼後裔)その1

大野毛利家家臣及び岩国藩士に源範頼の後裔と称する生田氏があります。その系譜によれば、元来藤原姓で藤原北家の流れを汲み、関白藤原忠実の子悪左府頼長、その子権中納言兼長と続き、兼長の子式部丞頼宗(或頼源)が生田を称したことに始まります。

頼宗の娘は蒲冠者源範頼の側室となり、一子三郎頼信を生みましたが、頼宗に嗣子が無かった為、頼宗は頼信を養子として生田家を嗣がせました。

その後生田家は代々範頼の後裔、吉見氏に仕えたようですが、詳細は不明です。8代式部丞頼宗は吉見頼行の石見下向に随行し、元弘3年(1333)の長門探題討伐で軍功を挙げたといいます。

仁左衛門信重は、実は水津信道の次男で、近江守信久の養子となり生田家を嗣ぎました。初め吉見広頼に仕えていましたが、吉見家の長門退転の際に吉見家を離れ、吉川広家に仕えました。信重には二子があり、嫡男成豊は吉川広家の三男政春(改就頼。吉見家を嗣ぎ、その後一門六家大野毛利氏として明治に至る。)に仕え、以後代々大野毛利氏の家臣となりました。

信重の次男正直は姓を池田に改めました。正直は岩国藩の医官でしたが、明の僧戴曼公(独立禅師)から疱瘡の治療術を伝授され、以後池田家は痘科の大家として世に知られることとなります。

正直の曾孫善郷は岩国を出て、広島・大阪・京都で疱瘡治療に当たり、その名声は益々高まり、寛政9年(1797)幕府から召出され、翌年幕府医学館の教授となりました。

系図では始祖を藤原兼長の子頼宗とするが、何れの系図にも頼宗の名は見えない。兼長は保元3年(1158)に20才で没しており、この出自には疑問がある。また、頼宗の娘が源範頼に嫁し、頼信を生んだとしているが(別本の系図では、頼信は範頼の三男源昭の子とする)、これも何れの系図にも見えない。吉見旧臣として、自らの先祖を吉見氏の祖範頼に繋げた可能性が考えられる。

生田氏系図